わが愛すべきゲーム自分史(9)1982年・10歳  ~ テレビゲーム黎明期 ~

私の家では電子ゲームは割と買ってもらえたのだが、テレビゲームだけは高校卒業まで頑なにNGだった。母親曰く「目に悪いからね」ということだったのだが、それなら電子ゲームを与えていることと整合性がとれない。とはいえ、私も強くねだったわけではないし、ほかの趣味や勉強もあったから「まあいいや」的な感じで過ごしていた。


30年後、家庭を持ち子どもができたときに、ようやくその真意が分かった。父はきっとテレビを占領されるのが嫌だったのだろう。当時テレビは一家に1台。特にアクティブな趣味もないなか、巨人戦が見られなくなったらストレスに違いない。
そこまで考えると、電子ゲームを買ってもらえたことも、子どもの関心を逸らす巧妙な作戦だったと言える。


そんなわけで、私にとってのテレビゲームは、18歳で独り暮らしを始めるまで「友達の家で遊ばせてもらうもの」だった。このため、しばらくは記憶も記録も薄いものになる。

 

小学4~5年にかけては集合住宅の社宅に住んでいたので、同年代の子どもの家の行き来は容易だった。そのなかに、初期のテレビゲームを複数保有している家庭があったので、よく遊ばせてもらった。
ファミリーコンピュータが覇権を握る前は、任天堂も含めて各社群雄割拠の時代があったのです。

 

● テレビゲーム6(任天堂

ja.wikipedia.org上位機種の「テレビゲーム15」だった可能性もあるが、さすがに細かくは覚えていない。
基本形は、アタリ社の「PONG」と同じ、左右に配置されたパドル(棒状のラケット)を2人で操作してボールを打ち合い、点数を競うもの。そのほかのゲームも、ルールや配置に若干のアレンジが加えられていたが、基本形とあまり変わらなかった。

 

● テレビベーダ―(エポック社

ja.wikipedia.orgこの辺から、ボールゲーム以外の可能性が模索され始めた。ドットは粗かったが、家のテレビでインベーダーがプレイできることだけで、当時の子どもには十分満足だった。

 

カセットビジョンエポック社

ja.wikipedia.org複数の遊びができるゲーム機はこれまでにもあったが、本体内蔵型だった。カートリッジ(カセット)を取り換えるゲーム機は、おそらくこれが最初だったのではないか。ファミコン以前には一番売れていたと思う。

繰り返しになるが、この時期の画面のドット数の粗さはファミコンなどの比ではなく、かろうじて対象物のイメージを想起できるレベルであった。
しかし、テニスゲームの画面が「絵」とも言えない中で、「ドット『絵』」と呼べるところまでデザインした当時のクリエイターは偉大だったと思う。
個人的に最高傑作だと思っているのが、「きこりの与作」の敵キャラであるイノシシ
ちゃんとイノシシだとプレイヤーが認識できるところは、現在のCGの精巧さとは別の意味での凄みを感じる。
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