わが愛すべきゲーム自分史(19)1990年・18歳 ~ 6畳一間のゲームセンター ~
ファミコン本体と同時に購入したのは、当時でもすでにレトロゲーム化していた初期タイトル。
しかし、心の空白を取り戻すには、まずここから始めたかった。
これが、思わぬ形で奏功することになる。
大学1年は教養課程なので、学部の違いに関係なく、サークルの友人とも一緒に授業を受けることもあった。
そうしていると、たまに「臨時休講」に出くわすのだが、
「急に2時間空いた。ラッキー!」
⇒「しかし、何もすることがない」
⇒「しかし、どこかへ繰り出すほどではない」
そんなとき、なまじ大学に近いところに住んでいた私がターゲットになった。
そこでうっかり「最近ファミコン買ったよ」と口を滑らせたのが運の尽き。
6畳一間のわが城は、タダで遊び放題のゲームセンターに変身した。
そこには、彼らが小中学校時代に熱中したソフト。これが上手くはまった。
皆で遊ぶことのできないRPGなどと違い、アーケードゲームの移植版はすぐにゲームオーバーになるから回転が早い。ハイスコアを競い合うこともできる。多人数で遊ぶにはもってこいだ。
そして、私も「先人の知恵」というメリットを享受することができた。
攻略サイトなど無論なく、攻略本も雑誌も限られていた当時、タダで情報がもらえるのは本当に貴重だったのだ。
● スペースインベーダー(タイトー)
駄菓子屋ゲーセンの思い出再び。ここで友人に「名古屋撃ち」を教わる。
インベーダーが最下段に来ればミサイルが無効化するのは私も知っていたが,そのメリットが「UFOで確実に300点ゲットする」ことにあるのは知らなかった。また,最後の1匹をノーミスで撃ち落とさなければいけないリスクと背中合わせであることも。
● ギャラクシアン(ナムコ)
ここでも,ボスを確実に800点で落とす技術を教わった。
● ゼビウス(ナムコ)
そもそも私は,ソルやフラッグが隠されていること自体を知らなかった。友人が難なく出現させたときのショックは筆舌に尽くしがたい。
大学2年の終わりまで,月に1~2回はこんな日があった。
大学生と言ってもまだ子どもの延長で,無邪気に遊んだ想い出は今も忘れていない。
わが愛すべきゲーム自分史(18)1990年・18歳 ~ リアル世界でファミコンGO ~
親との取り決めで、学費+家賃は仕送りで賄うが、それ以外の費用はアルバイトで捻出することにした。
これでも十分すぎる待遇。両親(ともに他界)には感謝しています。
5月には週2回のアルバイトも決まり、時間的にも金銭的にも少し余裕が出てきた。
もともと、服装にも食事にも贅沢する発想はない。
ならば考えることは1つ。家でファミコンを遊ぶのだ。7年越しの悲願である。
まず、住んでいるアパートの生活圏でゲーム機やソフトを買えるところを探した。
この時代「町のおもちゃ屋」は衰退が始まっていたし、あっても品ぞろえが脆弱。
電車に乗って吉祥寺辺りまで行けば量販店はあるものの、毎度毎度通うのも大変。
しかし考える。ここは学生の街。ゲームのニーズがないはずはない。
探せば絶対にゲーム販売店は見つかるはずだ。
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中古ゲームの店舗販売といえば、今ならば「ゲオ」「ブックオフ」などだろうが、90年代前半当時、これらの店舗はまだまだメジャーではなかった。
その代わり、数坪のテナントでひっそりと個人経営している中古ゲーム店がそこら中に点在していた。インターネットなどない時代、ゲーム好きたちは友人間のクチコミなどを頼りに店を探し出し、通い詰めていたのです。
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大学から自転車で10分ほどのところに住んでいたが、通学ルート以外の街並みはまだ詳しくなかった。大学で出来た友人もみな上京組で、土地勘のある人はいない。
ならば自力で探すしかない。
日曜日の朝、自転車をアパートに置いて街歩きを敢行した。
私鉄の駅周辺に狙いをつけ、歩くこと半日。
ありました。小さなビルの2階。
1階は定食屋で、気を付けてなければ看板も見逃しそうな店。
おそるおそる入ると、所せましと壁にぶら下がるカセット。そして棚の上にはファミコン本体。
中古でも1万円くらいだったと思う。ソフト3本と一緒に買えば2万円。
学生には安くない金額。 親の言いつけを破る背徳感。 学業への支障は?
さぁどうする?
……と悩んだのは、おそらく2秒くらいだったと思う。
同世代から遅れること7年、本当の意味でのファミコンライフが始まった。
わが愛すべきゲーム自分史(17)1990年・18歳 ~ 続・大学デビューはボウリング場 ~
大学サークルの友人とボウリング場で遊んだ話の続き。
それでは【ビデオゲーム編】。
アドベンチャークイズ カプコンワールド - Wikipedia
クイズを解きながら、すごろく形式で各ワールドを転戦し、ボスを倒しながら進む。
アーケードのクイズゲームはこれが初ではなかったと思うが、「2人対戦プレイで早押しができる」「正答率が表示される」といったギミックが充実し、その後のクイズゲームのフォーマットにも大きな影響を与えたそうだ。
数々のやりこみ要素に私も魅了され、基本的に散財はしない性格なのだが、これだけは100円玉を積んでコンティニューを繰り返し、全編クリアを目指したものだった。
また、2P対戦とは言っても実質的には協力プレイなので、友人と2人で挑めばクリアも楽になった。
※ このゲームは「カプコンワールド」の名称が示すとおり、各ワールドのボスにはカプコンの人気キャラクターや関連人物が配置されている。
しかし前述のとおり、私は5年以上ゲームの流行の最前線から離れていたので、当時は「レッドアリーマー」や「Dr.ワイリー」が出てきても、それが何なのか全く理解できていなかった。あるあるネタが分からないのは勿体ないのだが、分からないものは仕方がない。
※ 1年後に、スケールアップした「ハテナの大冒険」もリリースされ、こちらも相当やり込んだ。
ナムコのレースゲームとしては「ポールポジション」が最初のヒットだと思うが、このゲームでは複数の筐体をデータリンクして友人同士で競い合えるのが画期的だった(今では当たり前のことでも、最初に世に出たときの衝撃は大きいし、開発者の苦労も並大抵ではないのだろう)。
町中のゲーセンでは2~4台が定番だったが、ここのボウリング場では床面積の広さを生かして8台連結されていた。ボウリングに飽きたメンバーが8人横に並んで鈴鹿サーキットで競い合う姿は、控えめに言っても壮観だった。
(今回調べて初めて分かったのだが、下位のプレーヤーほどマシン性能が良くなる設計で接戦を生み出していた。この辺が、リアルを求めながらもリアルに振り切らない、ゲーム世界の良いところなのだと思う)
ほかには「TATSUJIN(東亜プラン・タイトー)」も時々プレイしたが、シューティングはどうもうまくならず、コスパの悪さが負担となってフェードアウトした。
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ちなみに、そのボウリング場はここ。 10年以上前になくなったんだ……。
時の流れは非情ですが、学生時代の思い出を形作った貴重な場所は、心の中で生きています。
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わが愛すべきゲーム自分史(16)1990年・18歳 ~ 大学デビューはボウリング場 ~
1990年4月、無事に大学に現役合格することができた。
上京したとはいえ、キャンパスは23区外の多摩地域で、都会でも田舎でもない町の風景は高校時代と大差なく、独り暮らしの生活もすぐに慣れた。
大学ではクイズサークルに所属し、こちらでも徐々に友人が出来た。
(クイズに関しても一家言あるが、これについて書くのは別の機会にします)
サークル活動は週2回あり、夜6時過ぎに正規の活動を終えると、有志で夕食を食べた後、近くのボウリング場で遊ぶのが定番の楽しみになった。
そして私は、ボウリングは下手だったので、2ゲームお付き合いしたあと施設内のゲームコーナーに入り浸るようになった。
まずは【エレメカ編】。
● 山のぼりゲーム(こまや)
生涯で唯一「極めた」と言えるゲームがこれ。登頂にかかる時間は20秒弱。失敗しても60秒の制限時間内なら何度でもやり直せるので、景品獲得率ならば100%だった。
エレメカでありながら、そのゲーム性はビデオゲーム的な要素があり、大人がプレイしても面白い。
まず、コイン未投入時の音声デモ「おい、そこのあなた、あんただよ!ちょっと試していかんかね!」が、普通にうるさい。
ルールは極めて単純で、上下左右に配置されたボタンを、老師の声「上!下!左!右!(ランダム)」に合わせて素早く押すだけ。早いほどハイスコアになる。
反射神経を要するゲームとは相性が良く(中学時代の卓球部や、カルタ取り、早押しクイズなど)、スコアが出ればムキになるのが性というもの。
記憶があいまいだが、確かここでは10円か20円でプレイできたような気がする。
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1980年代後半から90年代前半は、所謂「エレメカらしいエレメカ」が最後の輝きを放った時代だった。それ以前の機種に比べれば性能も向上しているためか、レトロを売りにしているゲームセンターでは現在も稼働しているものも多い。
しかし、2010年代になって「こまや」は破産し、ナムコもエレメカの保守業務を終了することを発表した。いよいよ絶滅危惧種となりつつあるので、この文化を守るためにも、保有店さんには細やかなメンテナンスを、近くの愛好家にはプレイしてお金を落とす形での支援をぜひお願いしたい。
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わが愛すべきゲーム自分史(15)1987年・15歳 ~ 高校時代はゲーム空白期 ~
高校の3年間は、ほぼゲームと無縁の生活を送った。
普通に勉強もしながら、校内新聞づくりなどの課外活動や、友達と高校生クイズに出場する(当時は天文学的な倍率で、すぐに失格した)など、それなりに楽しく過ごしていたので、別に不満を持っていたわけではない。
自転車通学の帰り道にあった百貨店は、昭和の頃は改修前で屋上遊技場も存在しており、たまに寄り道して1人で遊んだ。
そのころは都会のゲームセンターが変貌しつつあった時期だが、地方にはそんなムーブメントはなく、小学生のノリでエレメカを楽しんだりしていたのだが、唯一記憶に残っているビデオゲームがこれ。
● ストリートファイター(カプコン)
当時、ファミコンでも「イー・アル・カンフー」や「スパルタンX」が人気なのは知っていたが、すべて相手はCPUで、対戦プレイが可能な格闘ゲームを見たのはこのストリートファイターが初めてだった(※)。
また、主人公のリュウがまず日本の敵を倒したあとで世界を転戦するという世界観が、スケールの大きさを感じさせた。
ただ、情けないが自分ではプレイしていない。ボタンを叩く強度で「弱・中・強」を使い分ける仕組みがパンチングマシンのような荒々しさを感じさせており、実際にプレイしている人にもマッチョ系が多かったような気がする。
(※)後になって知ったが、1985年にファミコンで発売された「キン肉マン マッスルタッグマッチ」では対戦プレイができる。これが対戦格闘ゲームの元祖かも知れない(マリオブラザーズの喧嘩プレイは除く)。
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この時代(1987~89)をゲーム史のなかで俯瞰すると、
・ ファミコンソフトの充実
・ パソコンゲームの独自進化(信長の野望に代表されるシミュレーション)
・ ゲームセンターの発展(体感ゲームなど)
・ PCエンジンによるゲームのマルチメディア化
・ 16ビットゲーム機の先駆けとしての「メガドライブ」発売
など、大きく広がっていった時期であることが分かる。
自分はこうした流れをリアルタイムで全く経験してこなかったのが悔やまれる。
しかし、今はエミュレーター機(ミニファミコン等)やネット(サブスク等)の進化で、昔のゲームを気軽に楽しめるようになった。
「ファンタジーゾーン」「スペースハリアー」「アウトラン」の3タイトルは、「龍が如く0」内のミニゲームが初見だった。トロフィーコンプのため仕方なく挑戦したはずなのにドハマリし、ついにメガドライブミニ2まで購入してしまったのには苦笑いするしかない。
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わが愛すべきゲーム自分史(14)1986年・14歳 ~ ファミコン発展期は不完全燃焼 ~
中3になった頃、一時的に親しかった友人のところで、何度かファミコンを遊ばせてもらったことがある。
80年代後半になると、ファミコンにもストーリー性のあるゲームや、芸能人の名前を冠した企画もののゲームが登場してきた。
そうなると、遊ぶ方も相応に腰を入れて長時間プレイしないといけないのだが、なにぶん「お客様」なので、どれも中途半端になってしまった。
● ドラゴンクエスト
マイラの村に到着した辺りでストップ。謎解き要素もここまでは殆どなく、不完全燃焼。
● ドラゴンクエストⅡ
サマルトリアを突破し、ムーンペタの町で犬に話しかけた辺りでストップ。
● たけしの挑戦状
日本ゲーム史上に燦然と輝く「キングオブクソゲー」だが、私は「社長を殴る」「2Pコントローラーのマイクでカラオケを歌う」辺りまでしか遊んでいないので、なんかアナーキーなゲームだな程度の感想しかなかった。
はるか後になってホームページに載っている攻略情報を読み、その深遠なクソゲーっぷりを知るに至ったが、「やりたかった」というより「やらないで良かった」という思いのほうが強かった。
中3も後半になれば受験勉強一色になり、その友人の家にも行かなくなった。
そして、ファミコンに関しては、18歳で大学に入学し独り暮らしを始めるまで、全く情報がアップデートされなくなるのでした。
(ただ、ドラクエだけは「いつか絶対に続きをやるぞ」という意志を持っていた。これが、のちの大学生活に大きな影響を及ぼすことになる)
わが愛すべきゲーム自分史(13)1985年・13歳 ~ 読むRPG「ゲームブック」 ~
今から書くテーマはデジタルゲームではないのだが、その系譜に連なるので、この自分史の中で書くことにする。
1985年前後、日本では「ゲームブック」がブームになり、本屋では平積みのベストセラーが多く出版された。日本の作家による作品もあったが、人気の作品は洋書の翻訳ものが多かった。
そして、私が通った中学校でも、多くの男子が回し読みするブームが訪れた。中には、普段全く勉強しないのに、日本語版の出版日が待ちきれず、洋書を買って辞書片手に読む人まで出るほどだった。
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Wikipediaの受け売りになってしまうが、ここでロールプレイングゲーム(RPG)の歴史を少しおさらいする。
まず、1974年にアメリカで製作・販売された「ダンジョンズ&ドラゴンズ」が世界最古のRPGと言われている。これは、複数の人間が筆記用具やサイコロを用いて対話型で進める形式で、欧米では人気だったが、日本では面倒くささもあってあまり流行しなかった。
この面倒さを回避する仕組みが大きく2つに分岐したのだが、ひとつは、一般向けにも少しづつ普及した8ビットパソコンを使ったゲームで、「ウィザードリィ」「ウルティマ」「ブラックオニキス」などのRPGが好まれた。しかし、当時のパソコンはまだまだ高価で「大人の嗜み」というイメージが強かった。理解ある親のもとでなければ、子どもが触れる環境にはなかったと思う(両親ともにメカ音痴だった我が家のように)。
そしてもうひとつの分岐が、サイコロや筆記用具の要素をすべて本の中に押し込んだ「読むRPG」としてのゲームブックだった。1冊を300~1000のパラグラフに分解してストーリーを複数用意し、ゴールもバッドエンドも体験できる仕組みはとても斬新だった。また、一部の作品を除き、主人公の名前を用意せず「あなた」と表現することで、読者を冒険の主人公にさせて没入感を高める仕組みも秀逸だった。
1986年の「ドラゴンクエスト」発売によって日本でも本格的にRPGが認知されるのだが、その前史については、ゲームの解説本でもパソコンRPG関連の記述しかしていないものが多い。しかし、日本のRPG人気の下地になったのは、むしろゲームブックであったと私は思っている。
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ゲームブックのブームを牽引した「ファイティングファンタジー」シリーズは、日本では社会思想社が1984年に日本語版を発売し、その後10年くらいの間新刊が発行された。ただ、最も完成度が高く、私自身も傑作だと思っているのは最初期の作品だった。
ja.wikipedia.org● バルサスの要塞(社会思想社)
また、別の出版社から発行された「ソーサリー」は全4巻に及ぶ超大作で、これもお勧め。
● ソーサリー(東京創元社)
これらの作品は、2000年代になって別の出版社から再販されているが、これも絶版になったようだ。
また、ここでは詳しい紹介を省略するが、日本人の作品でも「ドルアーガの塔・三部作」「ネバーランドのリンゴ」などの名作がある。
ネットを見ると中古本は出回っているが、プレミア価格になっていて簡単には手が伸びない。30代以下でゲームブック自体を知らない人がいたら、ブックオフで見つけたときに買うのをお勧めします。ゲーム好きなら絶対にハマるはず。